熱球

2008-07-06-Sun-21:50
勝つために野球をやる。これは間違いない。

だけど、現実に最後まで負けなかった高校は一校だというのもまた事実だと分かっている。

そう考えると、何が嬉しくてあんなに厳しい練習に毎日耐えて野球をやるのか。高校野球をやる意味はどこにあるのかという気持ちになるが、自分がもし高校野球をやる意味は何かと問われたら、「いかに負けるか」にあると答える。

自分の力を出し切って負けたと胸を張って言えるというのは、実は幸せなことなのだと。

熱球 (新潮文庫 し 43-11)


重松清の小説。舞台は山口県にある旧制中学時代を前身とする進学校、周防高校。主人公はそこの野球部のメンバーだ。いわゆる古豪だが決して野球が強いわけではない高校がある年の夏、県予選で快進撃を見せ、決勝まで進出してしまう。

しかし、決勝前夜に「ある事件」が起き、チームは出場辞退。メンバーは傷心を抱えてバラバラになる…。

物語はそれから20年後から始まるという設定。

「高校野球は敗者のためにある」なんて歯の浮くようなセリフは、俺にはとても恥ずかしくて書けないけど、でも、勝負の場に立つことさえ許されずに野球が終わることを考えたら、どんな酷い負け方をしたとしても、試合を戦って負けることができるというのは、幸せなことなんだと思う。

いかに勝つかということは、いかに負けるかということに等しい。

野球をやっている本人が、甲子園に出られることを本気で信じているかどうかなんて構わない。いや、甲子園に行けると信じて野球ができる人の方が稀なわけで。

それでも、確かに甲子園があると、それを信じて野球ができることが高校野球の尊さというか、高校野球をやる意味なのではないかと思う。

つまりは野球選手である前に高校球児であるということなんだろう。本書では以下のような言葉で書かれている。

駆け抜けたほうが速いと理屈ではわかっていても、一塁にヘッドスライディングしてほしい。守備位置とベンチの往復は全力疾走してほしい。真夏の炎天下を走ることや雨の中でボールを追うことの「意味」など問わないでほしい。真っ黒に日焼けしてくれ。家に帰ったら泥のように眠ってくれ。勝ったら仲間と抱き合ってくれ。負けたら、子どものように泣きじゃくってくれ。それが、僕の考える「高校球児」だった。



精神主義と言われようと、時代に合わないと言われようと、高校野球のこういう部分は、変わらないでいて欲しいと俺は思う。

熱球 (新潮文庫 し 43-11)
新潮社刊
ISBN:978-4-10-134971-3

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